2023年1月13日金曜日

アキ


 親戚づきあいで熱海に遊びに来て、女性陣が買い物に興じているあいだ、私ひとりが温泉街のベンチで荷物番をしていた。

 預かった荷物の山を退屈まぎれに覗いているうち、姪が持ってきたのだろう季刊の少女漫画誌を見つけた。パラパラとめくってみると、一部だけ紙質がやけにいいページがある。

 表紙をあらためて見てみれば「ちばてつや」の名があり私は目を見張る。

 ちばてつやはあまりにも著名な、戦後漫画を支えた巨匠である。主戦場は少年漫画だが、デビューしたての頃に少女漫画を書いていた時期がある。ちばの世代の漫画家の多くがそうであった。

 その彼が老齢ながら何十年かぶりに少女漫画を描こうとする挑戦心に私は驚き感心し、本腰を入れてその漫画を読んでみようと決める。


 漫画のタイトルは「アキ」。


 アキは十五歳ぐらいに見える。活発な雰囲気の、短めのポニーテール(ちば漫画の少女ヒロインの定番の髪型である)の少女である。

 視点は徹底した一人称で、主人公の姿は描かれず、何者なのかも語られない。漫画の中には、アキと風景のグラフィックしかない。

 主人公とアキは、泊りがけで海水浴に来ている。アキはつねに、主人公の前にいる。歩くときは少し先を歩く。そしてひんぱんに振り向いて、こちらを見ている。

 旅館で、お好み焼き屋で、防波堤の前で、浜辺で。こちらを向いているとき、アキは1コマとして同じ表情をしない。多くは笑っているが、笑いかたが無限にあるかのようだ。

 大口開けて。うっすら微かに。少し眠いのをごまかすように。悪戯っぽくこちらをうかがって。少しだけ不機嫌なのを隠すように。ちょっとだけ媚びるように。こらえきれず天井を向いて。

 アキは笑う。ずっと、主人公の前で笑っている。

 笑顔のコマに時おり、アキの後ろ姿がまじる。細いポニーテールが揺れる。肩もむき出しの腕も細く、背も小さくて後頭部をやや見下ろす形になる。

 ひんぱんに細い首筋がはっきり見える。こちらを見ていないとき、アキは少しうつむきがちだから。


 ちばが普段描いている漫画とはまるで違う、ページ2コマぐらいの大きなコマ割り。そこに、アキが丹念に描かれる。

 古典的といえるめりはりのきいた太線に、ちばの漫画ではあまり見たことのない細い線で描き加えられた細部。アキが重ね着しているシャツの柄。首から掛けたチェーンネックレス。耳たぶ。おくれ毛。掻き上げてもすぐ落ちてくるサイドの細い髪。

 なにも起きない。アキと一緒に小さな海辺の観光地を回り、ジュースを買い、アイスを食べ、おみやげを買う。

 とりとめのないアキの言葉だけが飛び交う。「ね」「あれ!」「なんだろ?」「うそ!」「ばかみたい!」。しばしば、意味も曖昧な言葉たち。

 笑顔と声の断片と、細いうなじ。あるのはただそれだけ。

 「アキ」とは、そういう漫画だった。


 そして2日めの昼、アキと主人公はようやく海に入る。

 縦に二分割されたページの右側のコマ。

 晴れ渡った空のもと、アキは斜め犬かきのような、不思議な姿勢で泳いでいる。そして、満面の笑顔でこちらに振り向いている。

 その横のコマには、絵が描かれていない。縦長のコマの下のほうに、この作品のなかではじめて、主人公の独白が言葉にされている。


<どうして、そんな泳ぎかたになるんだ……>


 そんな、なにげない言葉が書かれている。

 

 ページをめくると、1ページまるごと使った大ゴマが現れる。

 青空と海がある。

 それだけだ。海面に細かく波が立っている。それだけだ。


 アキは、どこにもいない。


 そこで紙質が変わり、左側のページは懸賞のお知らせになっている。

 え、と私はつぶやく。後ろのページをバラバラとめくる。

 だが、「アキ」の続きはどこにもない。

 

 私は最終ページを見返す。その前の、アキの奇妙な泳ぎ姿と、笑顔を見つめる。

 そして、じわじわと実感する。

 続きも、後編もない。「アキ」は、これで終わりなのだ。

 アキという少女はこうして消えるのだ。

 消えた、という明らかな表現すらなく。この世界から、笑顔のまま消えるのだ。


 私は、しばらく焦点の合わない眼で、夕暮れの温泉街を見る。

 それから携帯電話を取り出す。

 「アキ」。この漫画は、絶対にSNSで話題になっているはず。私と同じ、胸に溢れるやりきれないものを、感じた人たちがいるはず。

 SNSアプリを立ち上げるために指を伸ばし、アイコンに触る。


 だが、どうしたわけか、アプリは立ち上がらない。

 理由がわからず、手元を見直す。すると、伸ばしたはずの指はどこにも見えない。

 逆の手に持っているはずのスマホを見ようとしても、なにも見えない。

 そんな馬鹿な、と考えて、途方に暮れて。そして、ふと真実に突き当たる。

 私の両手が見えないのは、当たり前のことだ。

 だって、私の両手は、布団の闇の中にあるのだから。

 

 私の頭は、思考は、冷たい深夜の匂いのなかに、柔らかい枕と自分の呼気のなかに、ストンと落ちてくる。


 私は熱海に行っていない。

 私には、旅行に行くような親戚などいない。

 少女漫画雑誌を持ってくるような姪もいない。


 だから、ちばてつやが描いた「アキ」という漫画は、存在しない。


 私は闇の中で横たわりながら、ふと泣きたくなる。

 存在しないもの。

   私が、いかなる意味でも、得てすらいないもの。

 なのに、それを失うことはある。いま、寝床でうずくまる私のように。

 

 数日経って。

 アキは、まだ私の中にかすかに残っている。

 だがもういまの私は、彼女の顔がほとんど思い出せない。

 私が夢の中でなにかを失ったという記憶そのものが、もうすぐ消えるのだろう。