2011年9月24日土曜日

クレモナ



僕はクレモナというスポーツの愛好者だ。
必要なのは、やや錆びついてキイキイ鳴る自転車
そしてできるだけ長い、だらだらと下る坂道。

宵闇迫るころ、長い坂をなにもせずに下り
その勢いでどこまで行けるかを競う。
ペダルを漕ぐことは一切許されない。

歩行者を避け、信号や段差を避け
灯のともりはじめる街を、そろそろと走ってゆくのだ。


クレモナの愛好者は、この町では僕の他に二人。

一人は肉屋のご隠居。
伝説のチャンプと呼ばれ、蝸牛が這う速度で
どこまでも行ってしまう僕らのマイスター。

僕はご隠居と口をきいたことがない。
遠くから限りないリスペクトを捧げるだけだ。


もう一人は、肉屋の三軒先の洋装店の次男坊。
僕の旧友でクレモナの名付け親
誰よりもクレモナを熱く語る男。

ご隠居は富士山の麓まで行っちゃったらしい。
いや、世界にはドーバー海峡を
クレモナで越えた猛者もいるらしい。
ドーバーを越えた猛者は
船の中を自転車で走っていたという。

「いくらなんでもそりゃウソだろう」
「いや、ホントにホントだって!
クレモナの達人はどこまででも行けるんだ」


クレモナとは、北イタリアにある小さな街。
そこに世界最高の下り坂があるのだという。
いつか聖地クレモナで世界選手権を開く。
それが次男坊と僕の夢。

ヨーロッパの夕日を浴びながら
長い石畳の道をどこまでも下り
遙かなるローマを目指すんだ。


それもこれも、半年前までの話。
長い旅から帰ってくると
ご隠居は肺炎で亡くなっていた。

次男坊は一度だけ、クレモナ中を見かけたが
今は会いに行けない建物の中にいる。
パチンコ屋で包丁を振り回したそうだ。

こうして、クレモナ愛好者は
この町に僕一人になってしまった。

ついでに言うと、調べたら
クレモナには長い下り坂なんかなかった。


それでも僕は、夕方になると
錆つき自転車で坂を下る。

僕はただの重量。
ただの重量が、夕暮れの商店街を
無表情に走ってゆく。

最後に見かけた次男坊を思い出す。
時間が止まったような、まっしろな顔を。

僕にも、もはや漕ぐべきペダルはない。
クレモナは、そういう人間たちのスポーツだから。

どこまで行けるか。

サドルから滑り落ちる、その瞬間までに。

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